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こんにちは。 【母より】宮沢りえのあれからの激やせとは?! よろしくお願いします。
本名:宮沢梨絵、1973年4月6日生まれ、東京都練馬区出身。
日本人の母とオランダ人の父を持つハーフ。
母親の光子さんはステージママから「りえママ」としてプロデュース力で注目を集めたが、2014年その母も亡くなる。
11歳でモデルデビューし、18歳のときヘアヌード写真集で話題に。
人気力士貴花田との婚約・婚約解消後は拒食症で激やせし注目される。
2009年に結婚するが現在も離婚協議中。
2014年、「紙の月」で7年ぶりに映画主演した宮沢りえは、第27回東京国際映画祭の最優秀女優賞を受賞しました。
これは日本人女優としては11年ぶりの快挙で、その仕事ぶりは絶好調ですが、私生活では、離婚協議を抱えるなど決して幸せな状況ではありません。
ところが、私生活では出生から不幸な環境が続きました。
母は宮沢りえを出産後、オランダ人の父とすぐに離婚。
幼少期は、叔母夫妻の家庭で育てられました。
母と離婚後の父とは一切交流がなかったのですが、テレビ朝日のワイドショーの取材で母の異なる兄弟がいることが判明。
また、母には違う夫との子供、宮沢りえにとっては日本人の異父兄弟が1人いることも判っています。
デビュー後の宮沢りえが日本中を驚かせ、知名度を上げた出来事が2つあります。
まずは、人気絶頂の時期にヘアヌード写真集を出したこと。
2つ目が貴花田(当時)との婚約発表と婚約破棄です。
篠山紀信によるヘアヌード写真集は1991年1月、樋口可南子の「ウォーターフルーツ」で出版されていました。
宮沢りえの写真集「Santa Fe」はその年の11月に発売されたのです。
撮影時点では、宮沢りえは17歳であったとも言われています。
この写真集は155万部のベストセラーとなり、当時の宮沢りえの人気がうかがえます。
国内の芸能人写真集の販売部数では未だに破られていない記録です。
ヘアヌードを撮るきっかけになったのは、篠山紀信が宮沢りえの母に会ったとき、社交辞令から「宮沢りえも18になるのだからヌードでも撮ろうよ」と言ったこと。
それに対して宮沢りえの母は「撮るのなら連休明けかな」と答え、篠山を驚かせたそうです。
当時の宮沢りえの仕事はすべて母が決めていたので、篠山と母の間だけで進んでいき、写真集を出すことに決定。
宮沢りえの写真集は母の思惑とは別に、その後も議論を呼びました。
1999年から施行された児童ポルノ禁止法に抵触するのではないかというのです。
この法律では18歳に満たない者を被写体としたポルノと定義し、販売だけでなく所持も禁じるというもの。
2009年6月26日、国会の法務委員会の席で、宮沢りえの写真集が取り上げられたのですが、撮影当時の年齢が17歳だったかどうかというもの。
ここからは2つ目の貴花田との婚約と婚約破棄について。
まず婚約発表は、写真集発行の翌年、1992年11月のことでした。
婚約発表の前月10月中旬に結婚したいと言い出した宮沢りえと貴花田の両人。
24日には博多で親方と宮沢りえ母娘、後援会の人など5人で会合。
相撲協会主導で話を進めることに宮沢りえの母も同意し、「よろしく」と言ったそうです。
この会合の直後から、婚約の噂が流れ始め、スポーツ紙で報道されることに。
そこで当時の貴花田の父親・藤島親方は「ニュースステーション」で婚約発表をすることになったのです。
当人そろっての婚約会見は11月末。そして二人別々の破局会見は2カ月後の1月末でした。
藤島親方サイドとしては、最初に「相撲協会主導で」という約束をしたのに、宮沢りえの母は「聞いていない」と反論。
その後も母は無理難題を言い始めたのです。
宮沢りえの母は、娘を引退させる気はさらさらなく、貴花田も「自分の娘を商品としてしか見ていない母親」と嫌っていたそうです。
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そして、12月7日に宮沢りえが家出騒動を起こして、藤島部屋に逃げ込んだことを貴花田の母憲子さんが連絡。
客観的に見て宮沢りえの母に問題があることは事実のようですが、宮沢りえは母親をかばうばかりです。
関係を修復するため、二人のスケジュールを合わせようとしても、母は「りえは忙しいから」と取り合わなかったと言います。
お互い気の強い母親同士の仲も良くなかったそうですから、最初からうまくいくはずもなかったのかもしれません。
当時の情報を客観的に見直すと、宮沢りえが仕事を辞める約束だったのに、母親が勝手に仕事を入れていたのも問題。
そのうえ、酔った宮沢りえの母親が貴花田の母親の悪口ばかりいうので、決定的な亀裂が入ったのだとも言います。
1993年1月27日、宮沢りえは「人生最高のパートナーになれなかった」とコメントを出してわずか2カ月間で婚約解消を発表したのです。
貴花田はこの騒動の直後に大関に昇進しますが、宮沢りえもこの年2本の映画が公開されるなど将来性のある二人でした。
宮沢りえの母親が娘を引退させたくない気持ちも理解できますが、本人にとってはこの件をきっかけに拒食症から激やせが始まり、長期の休みに入ります。
激やせが始まった宮沢りえは、長い長い潜伏期間を経験します。
1990年代中盤以降2000年代初頭まで目立った活躍はしていません。
2001年、香港映画「華の愛~遊園驚夢」で第23回モスクワ国際映画祭・主演女優賞を受賞。
2003年、「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を受賞するなど、本格的な復帰を果たしました。
このころにはようやく、激やせだけが話題になる女優ではなく、演技派に脱皮したのでしょう。
激やせのピークというのも変ですが、最も激やせしていたときの宮沢りえが何キロだったのかについてヤフー知恵袋への質問がありました。
それほど、極端な激やせが話題になったのでしょう。
35キロという回答がベストアンサーに選ばれていました。
168㎝の宮沢りえが35キロなら、激やせを通り越して病気です。
まさしく摂食障害といえます。
30キロ台の激やせだったころの画像を見れば、痛々しさに驚く人も多いでしょう。
宮沢りえがゴルフ場でスイングする激やせ姿の写真がよく使われます。
顔だけ出していればそれほど目立たない激やせでも、激やせした腕や脚を出してしまえば、その激やせぶりは一目瞭然。
芸能人のような職業は、拒食症であろうが、何であろうが、激やせしすぎては商品価値が落ちてしまいます。
事務所やマネージャーはタレントをできるだけ美しく見せるのも仕事のはず。
激やせしすぎた姿がネット上や雑誌に露出しては人気に関わります。
したがって、90年代後半から2000年代前半の激やせ時期は、宮沢りえの周囲も管理できていなかったに違いありません。
今でもよく使われる元サッカー日本代表の中田英寿との熱烈なキス画像や、今は亡き歌舞伎界の大御所・中村勘三郎との不倫など奔放な恋愛は周囲の管理不足。
母離れした宮沢りえをコントロールできる人物は誰もいなかったのでしょうか。
金儲けの手段として利用することしか考えない母親と貴花田に避難された宮沢りえの母。
その母への仕返しとして商品価値を落とすために激やせを繰り返す宮沢りえ。
そして、さらに母親への復讐を果たすため、奔放な恋愛を繰り返し、さらに激やせを続ける宮沢りえ。
誰もコントロールできなくなった宮沢りえは、さらに良くない選択をします。
誰もが祝福しない結婚です。
しかも「できちゃった婚」だったのです。
相手は元プロサーファーとされる中津ひろゆき氏。
2009年4月に結婚し、その翌月に女の子を出産したのです。
中津氏はその後、ハワイを拠点に活動するため、すれ違い夫婦。
最初から続くはずのなかった結婚にまい進したのは母親への復讐ではないでしょうか。
本当に結婚したかった貴花田との結婚を妨害された母への恨み。
最初は激やせに激やせを繰り返し、商品価値を落としさらに不倫や望まれない恋愛をつづけ、その仕上げが中津氏との結婚だったのです。
でも、今はその復讐の相手、母親はこの世にいません。
これからの宮沢りえは、誰のために生きていくのでしょうか。
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