太った芸能人、やせた芸能人を取り上げ、ダイエット情報を発信している安川です。





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おはようございます。 【引退】長谷川穂積が太った!! よろしくお願いします。

本名:長谷川穂積、1980年12月16日生まれ、兵庫県西脇市出身。

1999年11月プロデビュー。

4回戦で2度判定負けするなど、順調な滑り出しではない。

2005年4月20戦目で世界初挑戦しウェラポン・ナコンルアンプロモーションからバンタム級王座獲得後、10度の防衛を果たす。

2010年4月、11度目の防衛戦にモンティエルに敗れる。

2010年11月WBC世界フェザー級で王座獲得、2階級制覇を達成するが初防衛で陥落。

長谷川穂積 がっしり 1.png

「負ければ引退と」、公言していた長谷川穂積が4月23日の試合で負けてしまいました。
長谷川穂積は、スーパーバンタム級王者キコ・マルチネスと対戦し、7回1分20秒TKO負けを喫して、3階級制覇達成は夢と消えました。

負け方もコテンパンにやられたという印象。長谷川穂積は眼窩底と鼻を折られてしまい、いいところなしの負け方です。

試合前から「勝っても負けても引退」と引退を匂わせていた長谷川穂積。

試合翌日には当然のように「長谷川穂積引退へ」の見出しがスポーツ紙に躍りました。

長谷川穂積本人は「改めて会見します」と覚悟を決めたようなコメントでしたが、その後も引退会見はありません。

長谷川穂積 意気込み 2.png

それどころか、長谷川穂積は過酷な護摩行に挑んだとのニュースまで出ています。

本人のやる気が空回りしているようで、長谷川穂積には少し同情してしまいます。

4月23日の試合を振り返ってみましょう。

試合開始後のゴングが鳴らされて2分で、もう引退を予感させるような展開。

やる気ばかりで、かつての試合運びの上手さは見えてこない。

ファンの頭によぎるのは引退の2文字。足の運び、ウイービング。パンチの出し方とスピード。

すべてが引退直前のような甘さ。

長谷川穂積が引退試合の興行をしているのかと思うほどの動きの悪さ。

1R終了のゴングと同時に、長谷川穂積のタイトルダッシュの夢は潰え、同時に引退に一歩近づいたと誰の目にも映ったはず。

いやタイトルどころか長谷川穂積は引退目前と悟ったファンも多かったでしょう。

全盛期の長谷川穂積なら、苦もなく判定勝ちできた相手。チャンピオンとはいえ、キコ・マルチネスはそれほど強い相手ではありません。

長谷川穂積が「勝っても引退、負けても引退」と背水の陣を自らに課したのも、引退を覚悟したからこそ。

しかし、引退の覚悟が試合運びには出てきません。

焦っても、焦っても試合は好転しません。

打たれに打たれて、長谷川穂積のパンチはほとんどクリーンヒットしないまま、ノックアウトされてしまいました。

試合前の宣言どおり、長谷川穂積は引退しかないような敗北に終わりました。

眼窩底と鼻の骨を折られた長谷川穂積ですが、2つの骨折は時間が経てば癒やすことができます。

もっと心配なのは、「パンチ・ドランカー」の症状が見え始めたことです。

元プロボクサーのお父さんも証言します。

「試合近くなって、電話で話したとき、ろれつが回らず、喋り方もおかしくなっていました」

この試合をかつて「浪速のジョー」として一世を風靡した辰吉丈一郎が見に来ていました。

辰吉は、パンチドランカーの症状で、数年前からろれつが回らず、目も見えにくくなっています。

試合中、相手がぼんやりしか見えず、ダブって見えることもあったと本人が吐露しています。

視界も狭くなり、「見えないところから、パンチが飛んでくる」という状態でした。

長谷川穂積 減量.png

普通なら引退して当たり前なのに、辰吉は引退しません。その後も、試合を続けます。

日本では年齢的に定年。日本で試合ができないので、アジア諸国に行きます。

諸費用は全て自分持ち。ファイトマネーも一銭も入りません。

それでも引退せず試合を続けました。デビュー戦の子との試合でメッタ打ちにされます。

相手のパンチが見えないのです。気づいたときにはパンチをもらっている辰吉。

長年受け続けたパンチの積み重ねで、じわじわと「パンチ・ドランカー」の症状が出てきて、しかも悪化したのです。

恐ろしいのはパンチドランカーの末路。長谷川穂積には、辰吉のようにはなって欲しくありません。





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長谷川穂積には、健康な体で引退を迎えて欲しいのです。

長谷川穂積本人は再挑戦したいのだろうと考えてしまいます。

負け方が納得できない負け方だったので、傷が癒えると、闘志がわいてきても仕方ありません。

元世界チャンピオンですから、リマッチを含めて魅力のあるオファーがあったのかも知れません。

理由は分かりませんが、長谷川穂積の気持ちが揺れているのは事実でしょう。

スポーツ選手にとって、ピークの時期は人によって違います。元スーパーウェルター級世界チャンピオンの輪島功一は29歳で王座を獲得。35歳まで現役を続けました。

輪島功一の場合は、デビューも25歳で遅く、ピークも遅くやってきました。

内藤大助が世界チャンピオンに上り詰めたのは、2007年7月、33歳の誕生日の少し前。

長谷川穂積 リラックス 3.png

37歳で現役引退しました。内藤大助のピークはかなりおそかったのです。

逆にピークが早かったボクサーでは、ファイティング原田がいます。

19歳で世界フライ級王座に挑戦。見事チャンピオンになっています。

3カ月後の再戦で王者から陥落し、減量苦から逃れるためバンタム級に転向します。

減量との闘いがボクサーの宿命。ファイティング原田の場合は、試合後すぐに太った体型に戻ります。

原田の場合、普段は65kgの太った身体から減量を開始し、50.8kgまで15kg近くも落としました。

試合が近づくとジムの水道は、シャワーの栓をはじめ、全て針金で固定、水を口に出来ないようにされました。「水洗トイレの水さえ飲みたくなった」と本音を吐露しています。

太った身体は原田の体質。バンタム級まで上げてもすぐに限界。

さらに太った原田はフェザー級に上げました。

フェザー級の制限体重は57.153kgです。

フライ級に比べると7kg近くも太ったわけです。

ファイティング原田は22歳でバンタム級世界チャンピオン、フェザー級では疑惑の判定でチャンピオンを逃してしまいますが、27歳で引退。

引退の遅い輪島や内藤に比べれば、かなり早いピークと言えます。

30代半ばと20代前半では10歳程度の違い。

長谷川穂積が引退を考えるのが難しい理由も分かります。

長谷川穂積の場合、25歳でチャンピオンになり5年間防衛に成功します。

防衛失敗後、1階級太った体重でチャンピオンに返り咲きますが、初防衛で陥落します。

もはや、長谷川穂積のピークは終わったのでしょうか。

長谷川穂積は試合後、ファイティング原田ほど太ったりしませんが、10キロ程度の減量はしています。

では、ボクサーが年齢とともに階級を上げる(太った)のはなぜでしょう

ボクサーも一般の人と同様、加齢とともに、代謝が悪くなるからです。

学生時代ガリガリに痩せていた人が、働き出すとどんどん太ったというのはよくあること。

トレーニングしない一般人は太ったとしても当たり前ですが、ボクサーも年齢とともに太ったりするのでしょうか。

基礎代謝が衰えるのは、ボクサーも一般人と同じ。

ファイティング原田はもともと太った体質ですが、年齢とともにさらに太ったのは代謝の影響です。

世界チャンピオンの中には、6回級分も太った偉大なチャンピオンが2人います。

その一人が、マニー・パッキャオです。

彼は1998年5月に世界フライ級王座につきますが、2度目の防衛戦で減量失敗、王座剥奪されます。

つまり太ったまま制限体重まで落とせなかったのです。

スーパーバンタムまで太ったパッキャオは、2001年6月に王座につきます。

さらに太ったパッキャオは2003年フェザー級王座。

スーパーフェザー級まで太った彼は、2005年、3階級目のチャンピオンに。

また、太ったパッキャオは2008年6月、ライト級チャンピオンになります。アジア人初の4階級制覇です。

2009年5月にはスーパーライト級まで太ったパッキャオは5階級目の王座に。

半年後の11月にはウェルター級まで太ったパッキャオ。ついに6階級目の制覇です。

もうひとりの6階級制覇したチャンピオンはオスカー・デ・ラ・ホーヤです。

デ・ホー・ヤは1994年3月、スーパーフェザー級王座につきます。

わずか4ヶ月後、ライト級まで太ったデ・ホー・ヤは2階級目のチャンピオンとなり、その2年後、1996年6月にスーパーライト級王座につきます。

さらに太ったデ・ホー・ヤは、1999年9月ウェルター級。

長谷川穂積 記念 5.png

2001年6月にはスーパーウェルター級、2004年6月にミドル級王座につきました。

6階級分太ったとは、何キロ太ったことになるのでしょう。

パッキャオの場合、フライ級の50.8kgからウェルター級の66.7kgまで太ったことになります。

長谷川穂積も減量で体重はコントロールできるでしょうが、パンチ・ドランカーという不安があります。

引退するにしても、続けるにしても体だけは大切にして欲しいものです。








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